週刊文春に「あの夏、吉田輝星は覚醒した」という記事が載りました。書かれたのはノンフィクションライターの中村計さん
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中学生の頃、日本ハムに入団した吉田輝星投手は友達に将来を何をするのかと聞かれると
「プロ、プロ。行けるっしょ。」って軽く言っていたそうです。友達はこいつ何も考えてないと思われていたそうですが、その4年後には本当にプロになりました。
吉田選手のお父さんも金足農業高校のOBで180cmの長身投手だったそうです。控え投手で公式戦に出場したことはなかったそうですが。
お父さんの正樹さんは小学校入学と同時に輝星さんにミズノの製の8000円もするグラブを買い与えたそうです。奥さんにそんな立派なのいるかって怒られたそうです。
それから週末は必ず親子でキャッチボールそうです。小学校5年生の時には6年生に混じって試合に出るほどうまくなったそうです。
そんな輝星さんをお父さんは褒めなかったそうです。
自分は学生時代にやりきれなかったという後悔があるから、子供にはそういう想いはして欲しくない。だから、輝星さんに厳しく接していたそうです。
輝星さんはかなり自己主張の強い子供で小学校6年生の大会の準決勝と決勝が1日で行われることがあった。大会の規定で1日に7回までしか投げてはいかないというルールがあったそうで、そうなると当然、準決勝、決勝と投げ切ることはできない。
が、輝星少年は自分が投げると言ってきかなかったそうです。
去年の夏、吉田投手は秋田大会と甲子園で11試合93イニングを投げました。これはチーム事情もあったかもしれませんが、吉田投手の性格もあったんでしょうね。なにしろ、吉田投手の帽子のつばの裏には「マウンドは俺の縄張り」って書いてあったらしいですから。
そんな吉田選手が金足農業に入学した時、当時の主将、エースで四番だった堀井冬哉さんは吉田選手は生意気だった言われてます。
入ってきた時はボールの回転は良かったけど124km/hくらいしかスピードが出なかったそうです。
が、夏の大会の頃には140km/hのスピードボールを投げていたそうです。入学して数か月で急成長したと。
生意気と言われているだけあって、吉田投手はキャッチャー泣かせの投手だったそうです。キャッチャーがボールを後ろにそらすとそれがどんな難しい球だったとしても嫌な顔して「捕れよ」とか言ったりしたそうです。
すぐに感情が顔に出て、四球やエラーでリズムが崩れ始めると顔が真っ赤になったそうでう。
さらにロージンバックの扱い方が雑で、イラついたらロージンバックを叩きつけたりしていたそうです。
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吉田投手は酷い時には5回でロージンを空にしていたそうです。高野連から直接注意を受けた久米部長はロージンバックの取り扱いをかなり厳しく注意したそうで、ロージンバックを下に置いたまま腰を屈めてロージンに指を乗せて使うように指導したそうです。
実はあのサムライポーズ。吉田選手はしゃがんでロージン触っりながらセンターの大友選手とタイミングを合わせて手を挙げて
「しまっていこうぜ」「おー」とやっていたらしいです。
それを多分マスコミ辺りが勘違いしたのか、サムライポーズと言われ出して、高野連に不行儀だと怒られることになったのだとか。
しゃがんだままじゃなくて、一回立てってことでしょうかねえ。
吉田投手は1年生の時はそれほど練習熱心でも無かったそうです。いかに練習をちゃんと見せるかってことを考えて入りしたそうですが、2年から3年にかけてかなり練習熱心に変わったそうです。自分がプロになるとビックマウスを言っているように周りには見えるけど、本人はどうしたらそうなれるか必死に考えて必死に努力していたらしいです。
だから、体がものすごい大きくなっていったのだとか。
吉田選手は「俺が俺が」という部分もあるそうですが、ちゃんと人を見ているから、自分の中で日本一になるという目標が定まった時に周りを冷静にみられるようになったのでは?とマネージャーの金子さんは語ります。
1月13日、日本ハムの新人歓迎会の式典で、目標とするタイトルは?と聞かれたら、新人王って答えるのかと思ったら、自分はピッチャーだから、沢村賞を獲れたらいいなと思いますと答えたそうです。
いきなりとんでもないこと言うビックマウスだと思うかもしれませんが、多分、今、吉田投手の頭にはどうやったら沢村賞が獲れる投手になれるかというプランが渦巻いているのかもしれません。
なんなら、サイヤング賞って言ってくれたら良かったのに。などと思ってしまう。