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『「焼き場に立つ少年」は何処へ』長崎原爆の悲惨さを伝える一冊。

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 『「焼き場に立つ少年」は何処へ』という本を読みました。

 

 

 

 

この写真の表紙の写真、これはジョー・オダネルという米軍の方が撮られた写真です。

 

 

拡大してみました。

 

これはオダネルさんが戦後、佐世保から長崎に入った時、遺体を燃やしている人たちを見つけます。たくさんのご遺体です。

長崎の原爆でお亡くなりになった方たちの遺体を燃やしていたところだったんです。

するとそこに10歳くらいの男の子が背中に赤ん坊を背負って歩いてきた。これが写真に写ってる少年と赤ん坊です。

 この少年は火葬場までくると写真のようにずっと姿勢よく立っていたそうで、そこをオダネルさんは撮影しました。

写真を見たら分かるように少年の表情には強い意志が感じられます。何かをしにここにやってきたという神妙なお顔。

 背中の赤ん坊は深く寝ているのか、背中を大きくのけぞっていて今にも落ちそうです。

少年が10分ほどそこに立ちすくんでいたら、白いマスクの男性たちが少年のところにやってきて、おんぶ紐をゆるめ始めました。

実はこの赤坊は既に亡くなっていたのです。

マスクをした男たちは赤ん坊を胸に抱くと、火葬場の熱い火の中に横たえたそうです。赤ん坊は真っ赤な炎に包まれて、天に帰っていきます。その時、燃える赤ん坊を見つめていた少年の唇には血がにじんでいました。あまりにもきつく歯をかみしめていたためでしょうか。

赤ん坊を燃やす炎が静まると、少年は去って行ったそうです。

 

 これは朝日新聞社が1999年にオダネルさんにインタビューした様子だそうです。インタビューしたのは上田勢子さん。

実はこの写真、オダネルさんが戦後撮影してから、43年間、トランクに入れたまましまわれていたそうです。300点も戦時中の長崎や広島を撮影したフィルムがあったそうです。これはオダネルさんが軍の仕事として撮影したものでなく、個人的に撮ったものだから、そのように残されていた訳です。

 では、なぜに43年も封印されていたかというと、原子爆弾による悲惨な風景を思い出したく無かったからだそうです。

が、1989年に原爆の被爆者像に心を打たれたとかで、オダネルさんはフィルムの整理を始めます。

 オダネルさんが写真を公開すると、賞賛する声もある一方、原爆投下を正当とするアメリカ人に強く非難されます。

時はスミソニアン航空宇宙博物館で企画されていた原爆展が第二次世界大戦に参加していた退役軍人やマスコミの力で中止に追い込まれた頃でした。

 2007年に「焼き場に立つ少年」と題された写真。

先ほど紹介したこの写真ですね。この写真が長崎県美術館で公開されます。

 

さらに翌年にも写真展が開かれるのですが、そこで、この「焼き場に立つ少年」という写真が長崎で撮られたものでは無いのではないか?という議論が巻き起こります。

当時の長崎の爆心地近くは瓦礫だらけで裸足で歩けないし、写真の背景にある樹木が燃えずに残っているのもおかしいと更に長崎市内は段々畑の境に意志を置くことは無い。更に少年の兄弟に熱傷や外傷の痕が無い、今までに写真を公表すると人物特定の連絡があったが、それが無いことから、場所が長崎じゃないのでは?という議論になったそうです。

どこで撮影されたかはっきりしないのに長崎の被爆の写真として使うのは如何なものか?はっきり分かってから使ってはどうか?

ということです。

 そこで、筆者の吉岡さんはこの写真がどこで撮影されたか調査をされます。この本はその調査の内容が書かれております。

今まで撮影者のオダネルさんがこの少年に会いたいと4回くらい来日されているのですが、場所は特定されず、少年にも会えませんでした。そうしているうちにオダネルさんもお亡くなりになってしまいます。

 吉岡さんはオダネルさんが佐世保に上陸してからの足跡を追います。オダネルさんが佐世保に上陸したのが9月23日。

その後、早岐町、川棚町、大村市、諫早市から東長崎と移動されます。

実はこの年の9月17日に枕崎台風が上陸して、九州や広島に大被害を与えたそうで、そのことにより市街地はより廃墟と化してしまったようです。この写真が撮影されたと思われるのが10月6日。

 

 私は今まで長崎の原爆というと、長崎市内に大被害をもたらしたけど、けが人などは長崎市の病院に担ぎ込まれて治療を受けたり、公共施設を使って治療していたと思っていたのですが、この本を読んでいて分かるのが、被害者の数が多すぎるのと、長崎市がほぼ壊滅したことから、電車にけが人を乗せて、近隣の町の病院に運んでいたことを知りました。

 そして、病院で亡くなった方々はその町で火葬されたようです。だから、木々が燃えてないところでご遺体が火葬されていてもおかしくないんですね。

 そのような当時の状況がよく分かる記述が続き、最終的に少年がいたところはどこだったのか?その少年は誰だったかが分かるかどうかはこの本を読んでいただきたと思います。

 

 

 

 実はこの本、末尾というか、後半4分の1はオダネル氏が書いた文章やら、インタビューが収められております。そこにこの本の出展が書かれている形なんですが、実はこのオダネルさん、1949年からホワイトハウスに勤務して、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンの4台の大統領を撮影する任務についておられたのです。

 そのオダネルさんがBS-TBSの取材に答えた内容もこの本に書かれてます。

浦上天主堂から爆心地を見た様子について書かれてます。音もなく、動物も何もいなかった。と書かれてます。

オダネルさんは原子爆弾というものを見たこと無かったそうですが、見たことも無い惨状だったそうです。

 1950年にもうホワイトハウスに勤めていたオダネルさんはマッカーサーとトルーマン大統領の会談に同行して、ウェーク島に行かれたそうです。オダネルさんは海辺をトルーマン大統領と一緒にしばらく歩いたそうです。その時に思い切って

「閣下は原子爆弾を落としたことを後悔してませんか?」と聞いたそうです。

すると、トルーマン大統領は顔を真っ赤にして「それは私の決断じゃない、ルーズベルトがやったんだ」と答えたそうです。

 まぁ、大殺戮兵器を自分の命令で行ったって認めたくなかったんでしょうかねぇ。

トルーマン大統領、止めようと思えば止められたんじゃなかったのかなぁとか思うんだけどね。

 

 


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